湯河原で私を迎え入れてくれた人のひとりは、誰かに何かを見せるのが好きだった。
正式な案内も、大げさな前置きもない。見る価値があるからと、車で不動滝へ連れていってくれた。びわの木が並ぶ場所では、熟した実を指さして「ほら、この実」と言った。私は自分でもいで、その場で食べた。
いちばんいい甘さだった。甘すぎず、やわらかく、まったく自然で、木からとったばかり。実もおいしかったが、同じくらい覚えているのはその仕草だ。いいものに気づいて、私にも味わわせてくれた。
仕事も同じだった。竹の切り方、集め方、その強さ、何になるかを教えてくれた。一緒に、測り、割り、切り、結び、使えるものに組むことを覚えた。放棄された畑を手入れし、ものを建て、一人では見つけられなかった田舎の場所を歩いた。
彼の親切は、洗練されたものでも計算ずくのものでもなかった。知っていることを分けるのが好きで、ほかの人が手を貸すのも同じくらい喜んだ。湯河原を自分だけのものにせず、開いてくれた。
私にとってそれは珍しく、気持ちのいいことだった。滝は、ただ見せたい場所でいい。実は、指さして食べればいい。仕事は、ここにいていいかを試すものではなく、渡されるものだった。
湯河原で受けた親切は、よくこんな形をしていた。実際的で、開かれていて、ほとんどさりげない。車に席をつくってくれる。道具を渡してくれる。食べごろの実を教えてくれる。小さなことが積み重なって、湯河原は訪ねる町ではなく、迎え入れてもらった場所になった。
