藤木川の湯けむり
湯河原の温泉場を藤木川沿いに歩くと、源泉の上に立つ鉄のやぐらや、川の護岸に沿って延びる配管が目に入ります。お風呂へ向かう途中では素通りしがちな風景です。けれど、これこそが湯河原という温泉町の仕組みをいちばんよく表しています。湯河原の数十軒の宿では、湯は建物の真下の源泉から来ているわけではありません。町が70年近く運営してきた配湯網を通って、湯が届いているのです。
湯河原は、ある日突然温泉町になったわけではありません。河原に湧く湯が、この谷を日本最古の歌集に登場させました。その後、三つの変化がこの谷を近代的な温泉地に変えます。1895年からの傷病兵の療養、1909年からの温泉井戸の掘削、そして1924年の鉄道開通です。訪れる人の目にほとんど触れない最後の変化が、1956年に町が始めた町営温泉事業でした。個人が所有する源泉から湯を買い取り、一つにまとめて、宿や家庭へ送る仕組みです。町がこれを始めたのは、1950年代に井戸が増えすぎ、汲み上げすぎて、源泉が枯れかけていたからでした。
河原に湧いた湯
物語の始まりは、一首の恋の歌です。8世紀の歌集「万葉集」の巻14に、作者未詳の歌(3368番)が収められています。「足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに」。奈良県立万葉文化館の「万葉百科」は、「土肥の河内」を千歳川流域の湯河原の谷としています。現代語にすると「足柄の土肥の河内に湧く湯のように、けっして絶えるようには、あの子は言わないのだが」。湯河原町の歴史年表は、この歌を759年(天平宝字3年)の項に載せています。万葉集が完成したのは770年ごろです。
万葉集には、ほかにも温泉が登場します。愛媛の道後、兵庫の有馬、和歌山の白浜、そして太宰府に近い福岡の二日市。いずれも西日本の温泉です。湯河原は「万葉集に詠まれた唯一の温泉」と紹介されることがありますが、正しくは「東日本で唯一」です。湯河原温泉観光協会の特集を執筆した温泉評論家の石川理夫さんは、そこから、湯河原は文献上、関東で最も歴史の古い温泉だと述べています。
土肥は、今の湯河原町と真鶴町を合わせた一帯の古い呼び名です。この地の豪族・土肥氏は源頼朝の挙兵を助けました。城山ハイキングで土肥氏の菩提寺や土肥城跡を訪ねるのは、そのためです。石川さんによると、中世の湯河原は武士や村人の湯治場で、とくに戦の傷や近くの石工のけがに頼りにされ、「こごめの湯」「小梅の湯」と呼ばれていました。この「傷の湯」の評判は、何百年も後にふたたび大きな意味を持つことになります。
江戸時代について、石川さんの記述は短く具体的です。江戸時代最初の記録は、1651年(慶安4年)に小田原藩主・稲葉正則が入湯したことです。1672年(寛文12年)、温泉の湧く地域は宮上村となり、村明細帳に「湯ヶ川原」の地名が初めて現れます。湯河原温泉という呼び名はここから来ています。湯は河原から自然に湧いていたため、大水のたびに湧き口が動きました。三カ所あった共同の湯坪は流され、一つだけが残ります。村人はそれを「村湯」と呼び、村の共有財産としました。1842年にまとまった相模国の地誌「新編相模国風土記稿」には湯坪が3カ所描かれ、石垣を組んだ「下ノ湯」は「惣湯(そうゆ)」、つまり温泉地全体で管理する共同湯とも呼ばれていました。相撲番付にならった江戸の温泉番付では、湯河原は東の小結に位置づけられています。

傷病兵、文人、そして人が押す鉄道
近代の湯河原は、戦争とともに始まります。1895年(明治28年)6月21日から、日清戦争で負傷し東京の陸軍予備病院に収容された兵士たちが、湯河原で療養しました。町の年表は、同年11月30日までの療養患者数を延べで佐尉官1,260名、下士以下30,491名と記録しています。1904年(明治37年)6月からは日露戦争の傷病兵の療養も始まりました。石川さんは、こうした療養地の指定によって、湯河原の名湯としての評判が全国に広まったと書いています。
問題は、ここまで来る手段でした。1895年7月、熱海と吉浜の間に豆相人車鉄道が開業します。客車を人が押して走らせる鉄道です。翌1896年3月には小田原まで延び、全線の所要時間は約4時間でした。これは湯河原の会社ではなく、熱海と小田原を結び、この一帯を通っていた路線です。1923年の関東大震災で線路が寸断され、復旧されることはありませんでした。
それでも文人たちはやって来ました。国木田独歩は中西屋に泊まり、1902年に「湯ヶ原より」を発表しています。万葉公園には「湯ヶ原の渓谷に向かった時は、さながら雲深く分け入る思いがあった」と刻まれた独歩の碑があります。夏目漱石は1915年(大正4年)11月9日から16日まで天野屋に泊まりました。
井戸を掘る時代へ
20世紀に入るまで、湯河原は川が与えてくれる湯を使うしかありませんでした。1909年(明治42年)2月、室伏勝蔵が伝統的な掘削法である上総掘りで温泉井戸の試掘に成功します。その後、藤木川の渓谷に沿って次々に井戸が掘られ、1913年(大正2年)には掘抜井戸が20本になりました。井戸は温泉場地区に密集し、多くは深さ50〜100メートルです。1923年の大震災も湯をもたらしました。年表には、その影響で各所から温泉が湧き出したと記されています。
そして鉄道が本格的にやって来ます。1924年(大正13年)10月1日、熱海線の根府川〜湯河原間が復旧開通し、湯河原駅が開業しました。1926年(大正15年)、土肥村は湯河原町と改称します。1934年(昭和9年)12月1日に丹那トンネルが開通すると、熱海経由の線路が東海道本線となり、湯河原は日本の幹線鉄道の上に位置することになりました。1955年(昭和30年)には湯河原町、吉浜町、福浦村が合併し、現在の湯河原町が生まれています。
掘りすぎた井戸
発展は、新しい問題も連れてきました。町自身の説明は率直です。昭和30年代、温泉の乱掘や過剰な揚湯で水位が急激に下がり、温泉資源の枯渇が深刻になりました。町は1956年(昭和31年)、資源を守り適正に使うための町営温泉事業を発足させます。この年、木製の開渠による延長1,800メートルの送湯管を設置しました。翌年度、源泉所有者と町が13の源泉を統合して毎分1,850リットルの湯量を確保し、1957年4月、190件の使用者への配湯が始まりました。
木製管は10年はもつ計画でした。ところが腐食や破損は想像以上に早く、配湯の距離が延びるほど湯の温度も下がりました。1965年度(昭和40年度)から町は配湯網を改修し、石綿セメント管に切り替え、配湯後に余った湯を生かせるよう送湯管を循環方式に変えます。1966年(昭和41年)7月22日、湯河原町は神奈川県の温泉特別保護地区に指定されました。
源泉は個人のもの、配湯は町が担う
この仕組みの核心は、ほかではあまり見られない形にあります。町自身も独特の形態だと説明しています。源泉の所有権は所有者のままです。各所有者は自らの責任で湯を汲み上げて町営の本管に流し込み、町がそれを買い取って配湯します。運営を審議するのは12人の温泉委員会で、町長、源泉所有者4人、温泉使用者4人、学識経験者3人で構成されています。
湯を一つにまとめても、すべてが解決したわけではありません。1986年度(昭和61年度)の調査で、漏湯、断熱性能の大幅な低下、そして需要に揚湯量を増やすことで対応してきた結果、源泉が傷んでいる実態が明らかになりました。町は同じ年度に集中管理の基本計画を立て、メーター制への移行と揚湯量の抑制を柱に据えます。温泉集中管理が始まったのは1994年度(平成6年度)です。町内6源泉の水位は1996年度ごろから上昇に転じ、1998年度以降は年間2,000ミリ前後の降水量にも助けられて安定しました。ただし町は、これを町内のスポット調査と位置づけ、全体の動向とは見なしていません。現在は町役場の温泉課でモニターを通じ、タンクの水位や湯量、温度を常時監視しています。
2024年度(令和6年度)の数字が規模を物語ります。町内の源泉は全部で157本、そのうち利用中は75本です。町の配湯に流入しているのは25本で、湯量は毎分1,790リットル、平均温度は70.3℃。町自身も11本の源泉を所有しています。同年度末の利用者は、ホテル・旅館46件、寮・保養所23件、自家用133件、その他28件でした。利用中の源泉が75本あるのに対し、町の配湯に入るのは25本ですから、湯河原には今も自前の井戸で湯をまかなう風呂がたくさんあります。
では、この仕組みは機能しているのでしょうか。県の温泉研究機関である神奈川県温泉地学研究所によると、湯河原の源泉の多くは、数十万年前に活動を終えた湯河原火山の浸食カルデラの中に掘られています。同研究所は2024年度末時点の源泉数を108カ所(県内の約18%)とし、湯河原を箱根に次ぐ県内2番目の温泉場と位置づけています。町の表でも、休止中の49本を除くと108本になります。同研究所が2024年に91源泉を調べた一斉調査では、1962年以降、温度や成分総量に枯渇につながるような低下は見られませんでした。それでも同研究所は、今後もモニタリングを続けるべきだとしています。町もまた、温泉付物件のための大深度掘削が資源を脅かしかねないと注意を促しています。仕組みは源泉を安定させてきたように見えますが、関係者の誰も、それを当たり前のものとは考えていません。
動画
源泉を見守る研究所
2024年に湯河原の源泉を調べた神奈川県温泉地学研究所を、県が自ら紹介する動画です。
歩いて見る温泉の歴史
ここまでの歴史の多くは、温泉場を歩けばたどれます。万葉公園は、湯河原温泉が万葉集に詠まれていることから歌人・佐佐木信綱の提言で名付けられ、園内の万葉歌碑は佐佐木信綱が選び、竹内栖鳳が書いたものです。独歩の碑もすぐ近くにあります。公園の隣にある町の日帰り温泉は「こごめの湯」。中世の呼び名と同じ名前です。「惣湯テラス」は、かつての共同湯の名を受け継いでいます。藤木川沿いでは源泉のやぐらが、千歳川沿いでは護岸の配管が見られます。千歳川は県境でもあり、対岸の宿は湯河原町ではなく、静岡県熱海市の泉地区にあります。

町営の配湯を受ける宿でお湯につかるとき、そこにあるのは、個人が所有する井戸の湯を町が1957年から集め、送り、見守ってきたものです。1842年の地誌に描かれた村湯が共同のものだったのは、川が湧き口を動かし続けたからでした。今もこの湯は分かち合われています。理由は変わりました。谷全体で大切に使ってこそ、源泉は続いていくからです。
ニュース映像
いまの温泉町
2024年1月の日本テレビ「news every.」の特集です。番組によると、ピーク時に年間130万人以上だった来訪者は2022年に半分以下まで減りました。若い世代を温泉街に呼び込もうとする町の取り組みを追っています。
制作: 日テレNEWS ↗
